その街に着いたのは、もう日の暮れかかった頃だった。
空は夕闇に染まり、立ち並ぶ建物には点々と明かりが灯っている。
「今日はもう買い物は無理か……」
看板のしまわれた店を通り過ぎながら小さくため息を吐く。
とはいえ目的もなくうろつくのは時間の無駄だ。
「宿屋はあるかしら……」
考えながら歩いていると、にぎやかな声の聞こえてくる一角が目に入った。
わかりやすく酒場を示すプレートが掲げてあり、表に出ているテーブルでは数人の男達が酒瓶を片手に雑談をしている。
男達はいずれもほどよく酔っている様子で、食事は出来るのかと訊ねると、この酒場のマスターは街で一番の料理人だと薦められた。

雑然と並ぶ木製のテーブルはいずれも先客で埋まっており、はカウンター席の端に腰を下ろす。
適当に注文し、ウエイターが背中を向けたところで、はふう、と軽く息をついた。
すると、急に背後で歓声があがった。
なにげなく視線をやると、すぐ後ろのテーブルを数人の男達が取り囲んでいる。声の主は彼らのようだ。
どの街でも見かける賭け事の光景。カードを切る音からしてトランプを使ったゲームでもしているのだろう。
咎めるような雰囲気はない様子から、あまり規律に縛られた場所ではないようだ。
そんな分析をしていると、また歓声と悔しがる声が立て続けに聞こえた。
「……ご馳走様。美味しかったわ。」
はグラスのカクテルを飲み干して、静かに席を立った。
にぎやかな場は嫌いではないが、今は気分じゃない──そう内心で呟きながらも、何気なく目をやってみる。
「……?」
一瞬、誰かと視線があったような気がした。
思わず相手を探そうとした瞬間、「うわっ」と驚いたような声がかかる。
同時に黄金色の液体が降り注いだ。

「…………」
濡れた感触と、むせ返るようなアルコールの匂いには無言で立ち尽くす。
「す、すまない!怪我はしてないか?」
焦った様に話しかけてきたのは、ほとんど空になったグラスを持った若い男だった。
「……ええ、怪我はないわ。」
怒りよりも驚きを隠すように、は静かな口調で答える。
若い男はそれを怒りと受け取ったのか、慌てて拭くものを探し始めた。
どうしたものか、とは思考を巡らせる。
店の中は一気にボリュームを落としたように静かで、自分達が注目の的だと否応なしに実感する。
目立つのは避けたいが、ここはいっそのこと無理やり押し通るべきか。
などと考えていると、目の前に綺麗な白いハンカチが差し出された。
「これを使ってくれ。」
声をかけられ、反射的に相手の顔を見て、は小さく息を呑んだ。
乱れているようで優美さを感じさせる銀の髪、いくつもの傷跡を以っても崩れない端正な顔立ち。
舞台栄えしそうな黒のロングコートを洒落に着こなした伊達男。──記憶が正しければ、彼らの中で一番勝っていた人物だ。
底の見えないアメジスト色の瞳に促され、礼を言ってハンカチを受け取る。
髪や顔の被害は少なかったが、上着の左肩はほどんど酒が染みてしまっていた。
「悪いな、連れが迷惑をかけた。」
「私の不注意もあるし、気にしてないわ。」
「詫びと言ってはなんだが、宿まで送らせてくれないか。」
どこだ?と言外に問いかけられて、は首を横に振った。
「いえ、そこまでしてもらうのは、」
やんわり断ろうとしたの言葉を男は指先で遮ると、少し屈んで顔を近づけた。
「男として、いい女にそんな格好させたまま帰らせるわけにはいかないな。」
だから送られておけ、ということなのだろう。
「そう……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら。」
小さく頷いたは、視界の端に自分の席に置かれていた金貨を見て、気づかれぬようため息を漏らした。

「そういや名前を聞いてなかったな。俺はセッツァーだ。」
よ。さっきはどうもご馳走様。」
酒気を落とすように髪を払ってはセッツァーに向き直る。
「ところで彼らを置いてきてよかったの?」
「ああ、別にさっきのテーブルで勝負を挑まれただけだからな。」
セッツァーは事もなさげに答えると、すっかり日の沈んだメインストリートを見やってから訊ねた。
「で、どの辺に泊まってるんだ?」
「……実は、まだ決まっていないの。この街に着いたのは本当についさっきだから。」
はそう言って肩をすくめると、一瞬ちらりと酒場の方へ視線をやってから夜空を仰いだ。
「この辺りの人がいたら宿屋のことを聞こうと思ったのだけれど、見たところほとんど旅人ばかりのようだったし、参ったわ。」
「宿屋ならストリートの辺りを探せば簡単に見つかるぜ。ここはそんなに治安も悪くないしな。」
「そうね……ただ、宿屋には少しこだわりがあって、」
夜空を見上げたままは言葉を続ける。
「星が綺麗に見えるところがいいの。眠る前に星を眺めると、よく眠れるから……」
そう言ってから、ふ、と小さなため息がこぼれた。
「……なんて、この際贅沢は言えないわね。
あなたの使っている宿屋でいいわ。案内してもらえる?」
が訊ねると、セッツァーはなにやら空を見上げて思案していた。
「あの……セッツァー?」
名前を呼ぶとほぼ同時に、彼の手がの手を取る。
「来な。──最高の星空を見せてやるよ。」


セッツァーはメインストリートを通り過ぎ、建物の少ない街の外れまでやってきた。
手を引かれるままに着いてきたは、辺りの風景を見回して──そこにあるものに、目を奪われた。
「すごい……」
思わずこぼれた感想にセッツァーは楽しげな表情を浮かべている。
風の噂で聞いた、空を翔る船──
夜の闇の中にあって、その存在感は揺らいでいなかった。
「こっちだ。足元気をつけろよ。」
エスコートされるがままにデッキへ上がる。
セッツァーがなにやら機械をいじると、船体から駆動音が聞こえてきた。
「っ──」
デッキに伝わってきた振動に足を取られるが、倒れる前にセッツァーの腕に支えられる。
そしてそのまま、彼の懐へ抱き寄せられた。
「行くぜ。しっかりつかまっていろよ?」
彼の言葉と共に、ふわりと、足元は不安定になった。
そして──
「──顔、上げてみな。」
上がっていく感覚の後、船体が安定したところでセッツァーの声が振ってきた。。
「あ……」
見たことの無い空が、そこにあった。
混じりけの無い夜の色と遍く輝く星達。それらに果ては無くどこまでも続いている。
想像し得なかった体験に、すべてを忘れて、ただ見惚れていた。
「どうだ?」
「とても素敵。……こんな光景が見られるなんて、思ってもみなかった。」
幸せそうに微笑んで、は飽きもせずずっと星空を眺めていた。


飛空艇はゆっくりと街の上空を旋回した後、先ほどの場所へと着陸した。
「最高の景色だったわ。私の方がお礼をしたいくらい。」
船体越しに夜空を見上げ、は声を弾ませる。
「いい女にそう言ってもらえれば十分だ。」
セッツァーはどこか満足げな表情で答えると、そうだな、と呟いて徐に足を止めた。
そして前を歩くに手を伸ばし、ふわりと風に舞った髪をひと房攫って唇を寄せる。
「今はこれだけ貰っておく。──残りはまた会った時に。」
風に揺れる銀髪が月の淡い光に煌めく。
思わず目を奪われたその光景は胸の奥でずっと忘れられないものになった。
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 あとがき
セッツァーにやらせたかった。ただそれだけです。あと伊達男って呼びたかったです。
ひっさびさすぎてセッツァーの口調がわからなくなってのが一番危なかった。

 2016 6 22   水無月